彼女の様子がおかしい。何をそんなに怖がっているのだろう?もしかして君を脅かす人間がいるのかい?あいつか?あいつのせいなのか?だとしたら排除しなければ……****—―0時半「クソッ! 何なんだよ! お前一体誰なんだ!? 毎晩毎晩人の携帯に無言電話かけてきやがって!」里中は無言の相手に電話越しに怒鳴りつけていた。折角眠っていた所を例の無言電話で起こされてしまったので里中の怒りは沸点に達していたのだ。無言電話がかかってきて早1週間。連日連夜何十回も無言電話がかかってくるので、もういい加減我慢の限界だ。スマホの電源を切ってしまえば良いのだろうが、それでは相手に負けを認めてしまうようで嫌だった。男の意地である。「いいか!? これ以上無言電話をかけてくるなら発信履歴を割り出して警察に通報してやるからな!!」「……るな」すると初めて受話器から声が聞こえてきた。「あ? 何だって?」「……ちか……よるな……」「はあ? 近寄るなって何のことだ!?」すると今度ははっきりと声が聞こえた。「彼女に近寄るな!!」ボイスチェンジャーでも使っているのか、耳障りな大声が耳に飛び込んでくる。「おい? 何言ってるんだ? 彼女って誰の事だ!?」プツッ!そこで電話は切れてしまった。(何なんだよ……。彼女に近寄るなって……)そこで、里中は電話がかかり始めた先週のことを思い出してみた。(確か、あの日は千尋さんが病院にやってきた日で、俺は遅れて来た彼女を駐車場まで迎えに行って、その時に視線を感じて……)ふとある考えが浮かんだ。(もしかして、あの無言電話の相手は千尋さんの彼氏……? いや、待てよ。それならこんなまどろっこしい真似しないで、はっきり自分が彼女の彼氏だからと俺に宣言すればいいはずだろう)里中は不吉な予感がした。(あの無言電話の相手……ひょっとしてストーカー? 大体何で俺の携帯番号を知ってるんだ? 俺のことも千尋さんのことも知ってる人間? だとしたら病院関係者だろうな……。とにかく、今日は千尋さんが病院に来る日だ。彼女に最近誰かに付きまとわれてないか聞いてみよう)……結局里中はこの日、一睡もすることが出来なかった――****—―翌朝「え? 千尋さん今日は来ないんですか?」いつも通り出勤した里中は主任から、代理で別の人物が生け込みに来ること
「おい、千尋ちゃん暫くここに来ないんだって? 体調が悪いらしいじゃないか。早く良くなるといいな。患者さん達もヤマトに会えるの楽しみに待ってるし」患者のマッサージを終えて片付けをしていた里中に先輩の近藤が声をかけてきた。「え? 千尋さん具合悪いんですか!? 誰にその話聞いたんですか!」里中は驚いて近藤に詰め寄る。「お前、聞いてないのか? あ~そっか。千尋ちゃんの代理の人がやってきた時、お前患者さんの対応中だったな。ほら、あの人に聞いたんだよ」近藤の示した先には中島が花を飾っている所だった。「あの人が店長?」「うん、俺よりは年上だろうけど中々美人だよな~。ま、俺の彼女には負けるけどな。何たって笑顔が可愛いし……」里中はそんなのろけ話を上の空で聞いていた。(どうする、今千尋さんの具合の様子をを尋ねてみるか? でも正直に答えてくれるだろうか……)そこまで考えて、里中にある考えが閃いた。****「よし、終わり。うんうん、我ながら完璧な仕事ね」中島は自分が仕上げたフラワーアレンジメントを満足気に眺めた。秋らしく、暖色系の色でまとめてピンポイントに赤や紫の色の花を添えてみた。仕事も終了したので責任者に声をかけて帰ろうとした時に、突然中島は声をかけられた。「すみません。『フロリナ』の方ですよね? 少しよろしいですか?」中島は声をかけてきた青年を見た。(あら、随分若いスタッフね)「はい。何か御用ですか?」「俺、里中って言います。さっき同僚の先輩から千尋さんの体の具合が悪いって聞きました。それで、ちょっと気になる事があって……」(え? 何この男?)突然千尋のことを尋ねてきたので身構えると、里中が慌てて弁明した。「あの、実は1週間程前に千尋さんと駐車場に一緒にいた時に強い視線を感じたんです。その日の夜から毎晩俺の携帯に無言電話がかかってくるようになって、昨夜とうとう相手がしゃべったんですよ。彼女に近寄るなって。だから千尋さんに何かあったんじゃないかと心配になったんです」その言葉を聞いて中島は眉を顰めた。「あなた……失礼ですが、うちの青山とはどのような関係ですか?」「は? 関係?」「彼女と交際してるんですか!?」中島は口調を強めた。「とんでもないですよ! 病院で知り合った、友人関係でもない只の顔見知りですよ」「それじゃ、青山さんはあ
「この書類、新しい契約書になります。よろしくお願いします」「どうもありがとう」契約書を受け取ると中島は帰って行った。(本当は自分でこの契約書を持って千尋さんに会いに行きたかったけど、怯えさせてしまうかもしれない。それよりも俺のやらなくちゃならないのは犯人を見つけ出すことだ。一体どうすればいいんだ……?)具体的な考えはまだ何も浮かんでこなかったが、あまり時間はかけたくない。(取りあえず、共通の知り合いにかまをかけてみるか……?)気持ちを新たに、里中は仕事に戻って行った――**** 休憩時間の合間を縫って、里中はさぐりを入れてみることにした。けれども男性スタッフ全員が妻帯者であったり、彼女を持っていた。しかも全員が里中が尋ねもしないのに、のろけ話をしてくるので話にならない。(参ったな……。ここのスタッフかと思っていたのに空振りだったみたいだ)「……コーヒーでも買って来るか」 自動販売機の前でコーヒーを買おうとしていると背後から声をかけられた。「今日もコーヒー買うのか? 里中」振り向くと、そこにはオペレーターの長井が立っていた。「そうか、今日も入れ替え日だったのか」(そう言えば長井もここに出入りしている人間だから、千尋さんの顔を知ってるかもしれないな)長井の顔をじ~っと見た。「な、何だよ。男に見つめられる趣味は無いぞ」「なあ、長井……」「ん? 何だ?」「お前彼女いる?」「いきなり何言い出すんだよ。まあ、正直に言うと現在募集中かな」「ふ~ん。そうか」(長井は彼女がいない。可能性はあるな……。でもストーカーするタイプには見えないけどな)「突然どうしたんだよ? そういうお前はどうなんだ? 彼女いるのか?」「そんなのいねーよ。ま、今は仕事で精一杯だからな」(本当は千尋さんが俺の彼女になってくれたらなー)里中はお金を入れて自販機の缶コーヒーのボタンを押した。ガコン!出て来たコーヒーを取り出す。「それじゃ俺もう仕事に戻るわ。じゃあな」手をヒラヒラ振り、里中は缶コーヒーを持って職場に戻って行った――****ーー17時「お疲れさまでしたー」退勤時間になり、里中は帰ろうとすると野口に声をかけられた。「里中、『フロリナ』に行くんだろう?」「いえ、行くのやめにしました。今日代理で来た方に書類渡しましたから」「そうなの
君の明るい笑顔を見るのが大好きだっただけど、人一倍寂しがりやだったね辛い時、悲しい時は我慢しないで泣いてもいいんだよ君が目覚めるまでは側にいるから――**** 桜の木々に囲まれた葬儀場に参列者達が集まっていた。「家の中で倒れている所をお隣の川合さんが発見されたそうよ」「他にご家族はいないの?」「それが千尋ちゃんがまだ小学生だった頃に両親が交通事故で亡くなったから、幸男さんが娘の子供を引き取ったのよ」「父方のご両親は何故ここに来ていないんだろう?」「千尋ちゃんのご両親の結婚に猛反対だったらしくて絶縁状態だったのよ。でもさすがに自分の息子のお葬式には来たけれど、幸男さんと大喧嘩になって大変だったみたいね」「千尋ちゃんも成人して働いているから先方も幸男さんの葬式に来ないのかもな……」葬儀場で近所の人々が会話をしている。青山千尋は、椅子に座って窓から見える美しく咲いた桜の木々を眺めながらぼんやりと聞いていた。昨夜のお通夜には千尋の友人達も大勢駆けつけてきてくれたが、平日の告別式となると彼等の参加は難しい。結局千尋から告別式には顔を出さなくても大丈夫だからと断ったのである。人が少ない会場での会話は全て千尋に筒抜けとなっていた。(そっか……だから向こうのお爺ちゃんやお祖母ちゃんに一度も会った事が無かったんだ……)千尋の両親が事故で亡くなったのは、彼女が小学生の時。修学旅行に行っていた最中の出来事だった。両親の死で独りぼっちになってしまった千尋を引き取ってくれたのが祖父の幸男である。千尋は突然の両親の死を受け入れることが出来ず、二人の葬式にもショックで参列出来なかった。千尋は祖父の遺影を見つめた。そこには笑顔でカメラに写っている祖父の姿があった。専門学校を卒業したお祝いの席で千尋が撮影したものであった。『上手に撮れたなあ。よし、爺ちゃんの葬式の時はこの写真を使ってくれよ』生前の祖父の言葉が頭をよぎった。あの時は、そんな縁起でもないことを言わないでと祖父に怒って言った。だが、たったの1年で現実の出来事になるとは思ってもいなかった。堪えていた涙が出そうになり、千尋はぐっと両手を握りしめたそのとき。「千尋ちゃん」聞きなれた声で呼びかけられ、千尋は振り向いた。「川合さん」声の主は祖父が家の中で倒れているのを発見し、救急車を呼んでくれた近所の
「美味しい……」ここ数日、余りにも色々な出来事があった為、まともに食事することすら忘れていた。そもそも食欲など無かったが、差し入れのおにぎりは女性の気遣いが感じられ、今の千尋には何よりのご馳走であった。食事を終え、空いたお盆とお茶を給湯室に置きに行こうと席を立った時。「青山さん!」会場に響き渡るような大声で千尋を呼ぶ声がした。「あ……店長!?」花の専門学校を卒業した千尋は自宅周辺の最寄り駅である花屋で働いていた。そこの店長――中島百合が葬儀場に現れたのである。年齢は35歳で細見で長身、ショートカットの髪型の為か年齢以上に若く見える中々の美人。ちなみにまだ独身で、婚活中。「どうしたんですか? 店長。お店が忙しいので参列されなくても大丈夫ですってお話しましたよね?」千尋が働いている花屋『フロリナ』は全国規模の大型チェーン店の花屋である。どのような商品を売るかは、店長が自由に決めることが出来るスタイルを取っている。店長の中島はセンスが良く、フラワーアレンジメントや流行りのハーバリウムそしてブリザードフラワーといった商品の品を多く揃えたことにより、常に客が絶えない人気の店となっていた。更に男性達からは『若くてとびきり可愛い看板娘がいる』と評判の店であったが当の本人、千尋は全くその事実には気が付いていない。そんな人気の花屋をパートの女性を含め、たった3人でまわしているわけである。当然、自分も含め店長まで不在となれば皺寄せは一気にパート女性にのしかかってくる。「大丈夫よ。だって昨夜のお通夜には参加出来なかったんだもの。今日は本社に連絡して臨時休業にさせてもらったのよ。渡辺さんには休んで貰ったから、実は今一緒に来てるんだ。ほら、渡辺さん。こっちこっち」店長が手招きしている方を見ると、パート女性の渡辺真理子が大急ぎで向かってくるのが見えた。背はあまり高く無く、太めの体系の為に喪服のパンツスーツがかなり窮屈そうな様子である。3月末とはいえ額に汗をかき、ハンカチで汗を拭きながらやってきた。年齢は40代前半、夫と高校生・中学生男児二人の子供を持つ女性である。忙しい主婦の身ながら週5日、11時~18時まで働いてくれているので、千尋や店長にとって、とても頼りになる人物だった。「千尋ちゃん!」女性は千尋の側に小走りで駆け寄ると、千尋を力強く抱きしめた。「可
――その後 葬儀場の職員と49日の法要等の手続きを済ませ、千尋が家に帰ってきたのはすっかり日も暮れていた。祖父と暮らしていた家は築45年の古い木造家屋で平屋建て。全ての部屋が和室であるが、部屋数は2人で住むには十分な数があり、幸男の趣味の家庭菜園が出来る程の広い庭付きの家である。「ただいま」真っ暗になった家の玄関の鍵を開けて、中に入ると白い大きな犬が千尋に飛びついてきた。「ワン!」「ヤマト、ごめんね。すっかり帰りが遅くなって」千尋はヤマトの前にしゃがみ、頭を撫でるとヤマトは嬉しそうに尻尾を振った。「ヤマト……」そのまま黙ってヤマトの頭を撫で続けている。「キュ~ン」するとヤマトが鳴いて千尋を見上げた。その時になって初めて千尋は自分が泣いている事に気が付いたのである。「あ……私、泣いて……」そこからは堰を切ったように後から後から涙があふれきた。「ヤマト……。お爺ちゃん死んじゃった……私独りぼっちになっちゃったよ……。こんな広い家でたった1人で、私これからどうしたらいいの……?」するとヤマトは千尋の顔をペロリと舐めてジ~ッと見つめた。その姿はまるで(大丈夫ですよ。私がいます)と伝えているように見えた。「そうだったね。私にはヤマトがいるものね。独りぼっちじゃなかったんだ……。ありがとう、ヤマト。」千尋はヤマトをきつく抱きしめた。「ヤマト、帰りが遅くなっちゃったからお腹空いてないかな?」今朝家を出る時に1日分の餌と水を用意して出かけたのだが、量が足りたのか千尋は気がかりだった。餌と水を見るとすっかり空になっていたので、すぐに台所に行くとヤマトも後を付いてくる。千尋がドッグフードと水を用意してヤマトの前に置くと、嬉しそうにすぐに餌を食べ始めた。「ごめんね、やっぱりお腹空いていたんだね」ヤマトが餌を食べている様子を見届けると、千尋は風呂に入る準備をした。 部屋着に着替えて居間に入ると餌を食べ終えたヤマトが寝そべっていたが、千尋の気配を感じると起き上がって尻尾を振った。「お風呂が沸く間テレビでも見よっかな」千尋はリモコンに手を伸ばすと、たいして面白くも無い番組を見ていたが内容は少しも頭に入ってこなかった。(お爺ちゃん……)ともすればすぐに頭に浮かんでくるのは無くなった祖父のことばかりである。祖父のことを思い出すと、再び目頭が
—―午前6時ピピピピ・……大きな目覚まし時計の音が鳴り響き、眠っていた千尋はゆっくり目を開けた。布団から手を伸ばし、目覚まし時計を止める。「う~ん……もう朝か……」目をこすりながら呟く。祖父の49日も無事に済み、あれから半年の月日が流れていた。千尋のベッドのすぐ側にはヤマトが気持ちよさそうに眠っている。ヤマトは祖父が亡くなってからはずっと千尋の側を片時も離れなくなっていた。(私のことが心配でたまらないのかな?)その姿を見てくすりと笑った。事実、ヤマトのお陰で祖父を亡くした寂しさを乗り越えることができたようなものである。恐らくヤマトがいなければ祖父の死から立ち直れなかったかもしれない。ヤマトの寝姿を見て初めて出会った日の記憶が蘇ってくる——**** ヤマトとの出会いは今から4年前に遡る。当時、まだ小さな子犬だったヤマトは段ボール箱に入れられ、空き地に捨てられていた所を偶然通りかかった千尋に拾われたのである。****「キャン! キャン!」「え……? 犬の鳴き声?」千尋の耳に甲高い犬の鳴き声が聞こえて来た。鳴き声が聞こえる方を見ると、空き地に段ボール箱が捨てられている。「……?」恐る恐る段ボール箱に近づき、そっと中を開けてみた。「か……可愛い! まるでぬいぐるみみたい!」真っ白でフワフワの綿毛の子犬にすっかり魅了されてしまった。そっと抱き上げると子犬は尻尾を振り、千尋の顔をペロリと舐めた。「アハハハ……くすぐったい! おチビちゃん、飼い主さんに捨てられてしまったの? 可哀そうに……。ねえ? お腹空いてない? 何か食べさせてあげるね」腕の中に大人しく収まった子犬を見ていると無性に一緒に暮らしたい気持ちが募ってきた。実は以前から千尋は子犬を飼いたいと思っており、祖父にそれとなく話をしていたのだが、あまり良い顔はされていなかった。「お爺ちゃん……許してくれるかなあ?」迷いながらも千尋は子犬を連れて帰宅した。 祖父の幸男は突然千尋が子犬を拾ってきたことに案の定驚いたが、必死の説得が功を成し、家で飼うことを快諾してくれたのである。更には「ヤマト」と名前をつけたのも祖父であった。『どうだ? お前はオスだから男らしい名前を付けてやったぞ!』そして幸雄は嬉しそうに笑ったのだった——****「さて、起きなくちゃ」千尋は大きく伸び
千尋はいつも自作のお弁当を職場に持って行くようにしていた。忙しい接客業の仕事はランチに出掛ける時間を取るのが難しい。少しでも昼休みをゆっくり過ごすには持参するのが最も良かったのだ。炊飯器の中はもうご飯が炊けている。千尋にとって朝ご飯に味噌汁は絶対欠かせない。さっそく千尋は朝食の用意に取り掛かった 千尋はいつも自作のお弁当を職場に持って行くようにしていた。忙しい接客業の仕事はランチに出掛ける時間を取るのが難しい。少しでも昼休みをゆっくり過ごすには持参するのが最も良かったのだ。炊飯器の中はもうご飯が炊けている。千尋にとって朝ご飯に味噌汁は絶対欠かせない。さっそく千尋は朝食の用意に取り掛かった千尋の定番の朝のメニューは御飯にお味噌汁、納豆に海苔と至ってシンプルなものである。朝食の準備が整ったら、次はお弁当の準備。御飯を詰めてから前夜のおかずを弁当箱に入れる。仕上げは彩りを添える為にフリルレタスとプチトマト、これらを詰めて完成。お弁当作りも終わった頃にヤマトが起きてきた。「おはよう! ヤマト!」「ウオン!」ヤマトは嬉しそうに吠え、尻尾を振る。「お腹空いたでしょう? 待っていてね。今用意するから」フードボールにドッグフードを入れ、水を用意するとヤマトの前に置いた。そして祖父の仏壇の前に行き、ご飯と味噌汁を供えて、お線香を立てて手を合わせる。台所に戻ると、ヤマトが餌を前に千尋が戻るのを待っていた。「ヤマト、もう食べていいよ」そこで初めてヤマトは餌を食べ始める。その様子を見届けてから千尋も朝食を食べる準備を始めた。8畳のキッチンに置かれた小さな2人用のキッチンテーブルセット。これは祖父が亡くなった後、千尋が購入した家具だ。祖父と二人暮らしの頃は居間で食事をしていたが、一人になってからは食事の時にどうしても祖父を思いだしてしまう為、台所で食事を取る為に通販で購入したのである。「いただきます」手を合わせると、食事を始めた——朝食後、食器を洗い終わった千尋は前日の内に洗って部屋干ししておいた洗濯物の様子を見に行った。「う~ん……。夏の頃は朝にはもう洗濯物乾いていたんだけどな。さすがに10月にもなると無理かな?」洗濯物にはまだ少し湿り気のあ。女の1人暮らしとなると、安易に洗濯物を外に干せなくなってしまったのが今の千尋の悩みだった。「やっ
「この書類、新しい契約書になります。よろしくお願いします」「どうもありがとう」契約書を受け取ると中島は帰って行った。(本当は自分でこの契約書を持って千尋さんに会いに行きたかったけど、怯えさせてしまうかもしれない。それよりも俺のやらなくちゃならないのは犯人を見つけ出すことだ。一体どうすればいいんだ……?)具体的な考えはまだ何も浮かんでこなかったが、あまり時間はかけたくない。(取りあえず、共通の知り合いにかまをかけてみるか……?)気持ちを新たに、里中は仕事に戻って行った――**** 休憩時間の合間を縫って、里中はさぐりを入れてみることにした。けれども男性スタッフ全員が妻帯者であったり、彼女を持っていた。しかも全員が里中が尋ねもしないのに、のろけ話をしてくるので話にならない。(参ったな……。ここのスタッフかと思っていたのに空振りだったみたいだ)「……コーヒーでも買って来るか」 自動販売機の前でコーヒーを買おうとしていると背後から声をかけられた。「今日もコーヒー買うのか? 里中」振り向くと、そこにはオペレーターの長井が立っていた。「そうか、今日も入れ替え日だったのか」(そう言えば長井もここに出入りしている人間だから、千尋さんの顔を知ってるかもしれないな)長井の顔をじ~っと見た。「な、何だよ。男に見つめられる趣味は無いぞ」「なあ、長井……」「ん? 何だ?」「お前彼女いる?」「いきなり何言い出すんだよ。まあ、正直に言うと現在募集中かな」「ふ~ん。そうか」(長井は彼女がいない。可能性はあるな……。でもストーカーするタイプには見えないけどな)「突然どうしたんだよ? そういうお前はどうなんだ? 彼女いるのか?」「そんなのいねーよ。ま、今は仕事で精一杯だからな」(本当は千尋さんが俺の彼女になってくれたらなー)里中はお金を入れて自販機の缶コーヒーのボタンを押した。ガコン!出て来たコーヒーを取り出す。「それじゃ俺もう仕事に戻るわ。じゃあな」手をヒラヒラ振り、里中は缶コーヒーを持って職場に戻って行った――****ーー17時「お疲れさまでしたー」退勤時間になり、里中は帰ろうとすると野口に声をかけられた。「里中、『フロリナ』に行くんだろう?」「いえ、行くのやめにしました。今日代理で来た方に書類渡しましたから」「そうなの
「おい、千尋ちゃん暫くここに来ないんだって? 体調が悪いらしいじゃないか。早く良くなるといいな。患者さん達もヤマトに会えるの楽しみに待ってるし」患者のマッサージを終えて片付けをしていた里中に先輩の近藤が声をかけてきた。「え? 千尋さん具合悪いんですか!? 誰にその話聞いたんですか!」里中は驚いて近藤に詰め寄る。「お前、聞いてないのか? あ~そっか。千尋ちゃんの代理の人がやってきた時、お前患者さんの対応中だったな。ほら、あの人に聞いたんだよ」近藤の示した先には中島が花を飾っている所だった。「あの人が店長?」「うん、俺よりは年上だろうけど中々美人だよな~。ま、俺の彼女には負けるけどな。何たって笑顔が可愛いし……」里中はそんなのろけ話を上の空で聞いていた。(どうする、今千尋さんの具合の様子をを尋ねてみるか? でも正直に答えてくれるだろうか……)そこまで考えて、里中にある考えが閃いた。****「よし、終わり。うんうん、我ながら完璧な仕事ね」中島は自分が仕上げたフラワーアレンジメントを満足気に眺めた。秋らしく、暖色系の色でまとめてピンポイントに赤や紫の色の花を添えてみた。仕事も終了したので責任者に声をかけて帰ろうとした時に、突然中島は声をかけられた。「すみません。『フロリナ』の方ですよね? 少しよろしいですか?」中島は声をかけてきた青年を見た。(あら、随分若いスタッフね)「はい。何か御用ですか?」「俺、里中って言います。さっき同僚の先輩から千尋さんの体の具合が悪いって聞きました。それで、ちょっと気になる事があって……」(え? 何この男?)突然千尋のことを尋ねてきたので身構えると、里中が慌てて弁明した。「あの、実は1週間程前に千尋さんと駐車場に一緒にいた時に強い視線を感じたんです。その日の夜から毎晩俺の携帯に無言電話がかかってくるようになって、昨夜とうとう相手がしゃべったんですよ。彼女に近寄るなって。だから千尋さんに何かあったんじゃないかと心配になったんです」その言葉を聞いて中島は眉を顰めた。「あなた……失礼ですが、うちの青山とはどのような関係ですか?」「は? 関係?」「彼女と交際してるんですか!?」中島は口調を強めた。「とんでもないですよ! 病院で知り合った、友人関係でもない只の顔見知りですよ」「それじゃ、青山さんはあ
彼女の様子がおかしい。何をそんなに怖がっているのだろう?もしかして君を脅かす人間がいるのかい?あいつか?あいつのせいなのか?だとしたら排除しなければ……****—―0時半「クソッ! 何なんだよ! お前一体誰なんだ!? 毎晩毎晩人の携帯に無言電話かけてきやがって!」里中は無言の相手に電話越しに怒鳴りつけていた。折角眠っていた所を例の無言電話で起こされてしまったので里中の怒りは沸点に達していたのだ。無言電話がかかってきて早1週間。連日連夜何十回も無言電話がかかってくるので、もういい加減我慢の限界だ。スマホの電源を切ってしまえば良いのだろうが、それでは相手に負けを認めてしまうようで嫌だった。男の意地である。「いいか!? これ以上無言電話をかけてくるなら発信履歴を割り出して警察に通報してやるからな!!」「……るな」すると初めて受話器から声が聞こえてきた。「あ? 何だって?」「……ちか……よるな……」「はあ? 近寄るなって何のことだ!?」すると今度ははっきりと声が聞こえた。「彼女に近寄るな!!」ボイスチェンジャーでも使っているのか、耳障りな大声が耳に飛び込んでくる。「おい? 何言ってるんだ? 彼女って誰の事だ!?」プツッ!そこで電話は切れてしまった。(何なんだよ……。彼女に近寄るなって……)そこで、里中は電話がかかり始めた先週のことを思い出してみた。(確か、あの日は千尋さんが病院にやってきた日で、俺は遅れて来た彼女を駐車場まで迎えに行って、その時に視線を感じて……)ふとある考えが浮かんだ。(もしかして、あの無言電話の相手は千尋さんの彼氏……? いや、待てよ。それならこんなまどろっこしい真似しないで、はっきり自分が彼女の彼氏だからと俺に宣言すればいいはずだろう)里中は不吉な予感がした。(あの無言電話の相手……ひょっとしてストーカー? 大体何で俺の携帯番号を知ってるんだ? 俺のことも千尋さんのことも知ってる人間? だとしたら病院関係者だろうな……。とにかく、今日は千尋さんが病院に来る日だ。彼女に最近誰かに付きまとわれてないか聞いてみよう)……結局里中はこの日、一睡もすることが出来なかった――****—―翌朝「え? 千尋さん今日は来ないんですか?」いつも通り出勤した里中は主任から、代理で別の人物が生け込みに来ること
ガラガラガラガラ……シャッターを閉める音が店内に鳴り響く。千尋は鍵をかけると中島が声をかけてきた。「それじゃ帰ろうか? あ……でも何か買い物ある? スーパーに寄る?」「でも……ご迷惑じゃ……」ヤマトのリードを握りしめる千尋。「私もね、スーパーで買いたいものがあるんだ。今日はね、フライのお惣菜の特売日なのよ! しかも広告が入ってたんだけど、新商品の発泡酒が発売されたから、買って試してみたくて」中島は千尋と違い、料理はあまり得意ではない。もっぱら、コンビニ弁当かスーパーの弁当、総菜と言う食生活だ。本当は外で飲んで帰りたいけど、車で来てるからね。……と言うのが、もはや口癖となっていた。「それじゃ、お願いします」「気にしなくていいって。じゃ、今店の前に車回してくるわね」中島が車を取りに行くと千尋はヤマトの前にしゃがみ、頭を撫でなた。「皆、私を心配してくれていい人ばかりだよね。で……も本当に誰なんだろう。お爺ちゃんもいないあの家に1人きりなのはやっぱり怖いよ。ヤマト、絶対に私の側から離れないでくれる?」ヤマトは千尋の目をじっと見つめながら黙って聞いていた。「お待たせー」ワンボックスカーに乗った中島が戻ってきて窓を開けて手を振る。「青山さんは助手席に座って。ヤマトは…‥後部座席でいいかな?」「はい、それで大丈夫です」「うん、じゃあ乗って乗って」**** 車で走る事、約10分。大型スーパーに到着するとヤマトを車に残し、2人のショッピングが始まった。「あの、店長さえ良ければ私の家で一緒に食事しませんか?」ショッピングカートを押しながら千尋は中島に尋ねた。「え? お邪魔していいのかしら?」「はい、むしろ一人になるのは……ちょっと……」最後の言葉がしりすぼみになってしまった。「うん、それじゃ決まりね」 それから約40分後、食材やらお惣菜を大量に買い込んだ2人が車に戻ると、待ちくたびれたのかヤマトが眠っていた。「あらま、眠ってるね」「はい、家に着いたら起こすのでこのまま寝かせておいて貰えますか?」「勿論かまわないけど、それじゃ行きますか」**** 家に到着すると、千尋はすぐにヤマトを起こして家に入らせた。「お邪魔します……。わあ~すごく綺麗にしてるのね。青山さんの家に比べたら、私なんて汚部屋暮らしかも」中島は感心
この日――千尋は手紙が気がかりで仕事に集中出来なかった。来店する男性客は愚か、出入りの業者の男性まで全てが青い薔薇の送り主ではないかと思うと、どうしても対応がぎこちなくなってしまう。そんな千尋の様子を中島と渡辺は心配そうに見ていた。****――18時渡辺と早番の中島の勤務終了時間である。「ごめんね。千尋ちゃんを残して帰るの心配なんだけど、これから町内会の会議があるから参加しなくちゃいけないのよ」渡辺は申し訳なさそうに謝った。「そんな、私個人の問題で渡辺さんにご迷惑かける訳にはいきませんから。あ、そうだ」千尋は急いでロッカールームに行くと紙の手提げ袋を持ってすぐに戻ってきた。「これ、昨日お借りしたタッパと私が焼いたクッキーです。肉じゃがとても美味しかったです。ありがとうございます」「まあ!千 尋ちゃんの手作りクッキー? ありがとう! 後で家族と一緒に食べるわ」渡辺はにっこり笑って受け取った。「あ、ちゃんと店長の分もありますからね。デスクに置いてあるので帰る時に持って行って下さい」「ありがとう、青山さん」渡辺が紙袋を持って帰っても中島はまだ帰ろうとしない。店の奥のPCに向かって作業をしている。それを見かねた千尋が声をかけた。「あのー店長はお帰りにならないんですか?」「う~ん……ちょっと残務処理があるからね。今日は最後まで青山さんと店に残るわ。それに青山さんを1人で残しておくの心配だし。実はね、人事に掛け合って、もう少し人員を増やして貰おうと思って今本社にメール書いてるのよ。正社員じゃなくてもパートや若いバイトの子でもいいしね。ほら、開店準備や閉店準備って一人じゃ忙しいじゃない?」中島はPCを打つ手を止めて言った。自分を心配してくれているという思いが込められている事に気付いた千尋は嬉しい気持ちで一杯にり、お礼を述べた。「ありがとうございます。店長」「いいのよ、気にしなくて。それよりも青山さん、今夜は家まで送ってあげるわ」「え? いいんですか?」「いいのいいの。どうせ私は車で来てるんだし、乗せて行ってあげる」「でも……」その時。自動ドアの開く音とチャイムが店内に鳴り響いた。「あ。ほらお客さん来たわよ。さ、閉店まで後少し。頑張らなくちゃ」「はい。私が対応しますので店長は今の仕事続けてて下さい」中島に言い残すと千尋はそ
遅番だった渡辺が出勤し、客が引けた合間に3人は集まって話をしていた。「……どうしよう? 警察に相談する?」渡辺が千尋に尋ねる。「でも直接的な被害が出ない限り、警察は動いてくれないんじゃないの? まだ今の段階ではストーカーと判断してくれるかしら?」中島が眉を顰める。2人のやりとりを千尋は黙って聞いていた時、中島の業務用スマホがメッセージを着信した。メッセージを開いた中島は「あっ!」と口を押えた。「店長? どうしたんですか?」尋ねる千尋。「青山さん。これ見てくれる?」「!!」スマホを受け取り、メッセージを読んだ千尋に戦慄が走った。『どうしてお店に青い薔薇が飾ってあるんだい? あの薔薇は君へのプレゼントなのに』「何!? 一体何が書いてあったの!?」渡辺は千尋からスマホを奪うように取り、顔色が変わった。「……青い薔薇の送り主はここの店に来てるのかも……」****「それじゃ、電気かけていきますね~」里中は患者の身体に毛布をかけるとカーテンを閉めてマッサージ器の装置を作動させた。「フワ~ッ」もう何度目かの欠伸を噛み殺していると、丁度隣で同様に装置を動かしていた先輩から話しかけられた。「おい、何だよ。今日のお前、随分眠そうにしてるじゃないか?」「いや~実は昨日家に帰った後、夜中まで何度も非通知で電話がかかってきたんですよ。しかも電話に出れば無言だし、出なければなりっぱなしで。結局最後は相手にしてられないんで、携帯の電源を切ったんですけどね。もう訳が分からないですよ」「何だよ、誰かに恨みでも買ったか?」「何言ってるんですか。俺は品行方正な勤労者ですよ、ちゃんと税金だって納めてるし……」「いや、それとはちょっと違うと思うぞ? でもそんなに眠いなら入り口の自販機でコーヒーでも買ってきたらどうだ?」「ふわ~い」幸い小銭はユニフォームのポケットに入れてある。里中はリハビリステーションの入り口にある自販機に向かうと、丁度商品の入れ替えをしている最中だった。「あ、すみません。もう少しで補充終わりますから……あれ? 里中じゃないか」オペレーターの男性が顔を上げた。「あ、今日は長井の巡回日だったんだ」「ああ、でも昨日も来てたけどな。ただ違う場所で補充してたんだ」長井と呼ばれた男と里中はこの場所で知り合った。何度か顔を合わすうちに意気
風呂から上がると居間でヤマトが既に眠っている。千尋は冷蔵庫から缶チューハイを持ってくるとソファに座り、PCを開いてネット配信ドラマを見ながらお酒を飲んだ。記憶喪失になってしまった恋人を一途に思い続ける女性が主人公の物語である。「う~ん。まさか恋人の昔の彼女が出てくる展開になるとは思わなかったな……。面白い展開になってきたみたい」1話分を見終わると片づけをして自室に戻ってスマホの画面を開いた。「あ、店長と渡辺さんだ」二人からいずれも千尋を心配する内容のメッセージが届いていた。そこで帰りに後を付けられていた気配を感じたとメッセージを送り、部屋の電気を消して千尋は眠りについた——****ピピピピピ……目覚ましの音で千尋は目を覚ました。ベッドの側にはいつの間にかヤマトがうずくまって眠っている。「う~ん……」軽く伸びをすると着替えをし、雨戸を開けて太陽の光を取り込む。朝食とお弁当の準備をしているとヤマトが起きてきた。「おはようヤマト。御飯もう少し待っててね」手早くお弁当を詰め終え、餌と水を与えるとヤマトは夢中になって食べ始める。それを見届けると千尋も朝食を口に運んだ—— 家の戸締りをして玄関を開けた時、門に設置してある郵便受けから白い紙が覗いていた。取り出してみると、それは白い封筒だった。手にした途端、直感的に恐怖を感じてゾワッと身体が総毛立った。辺りをキョロキョロ見回しても人の気配は感じられない。すぐに封筒をカバンにしまい、玄関に鍵をかけるとヤマトを連れて千尋は急いで走り出した。(早く、人通りの多い通りまで出なくちゃ!)ハアハア息を切らしながら走り続け、いつの間にかヤマトに引っ張られて走る形となっていた。ようやく商店街へたどり着いた千尋は辺りを警戒しながら職場へと向かった。幸い、今日は遅番の日だったので中島が先に出勤していた。「どうしたの青山さん。そんなに息を切らしながら出勤してくるなんて。まだ時間に余裕があるのに」「おはようございます……実は今朝家のポストに手紙が入っていたのですが、何だか怖くて中を見ることが出来なくて。でも捨てるのも怖くて持って来てしまったんです」「いいわ、それなら私が手紙を開けてあげる。貸してくれる?」「……どうぞ」中島は手紙に鋏を入れて、中身を取り出した。「……」黙り込んでしまった中島が心配になり、
「や、やっと着いた……」荒い息を吐きながら千尋は玄関のドアアイから外の様子を伺ったが、誰もいない。いつもなら徒歩15分の距離なのに、今日はとても長く感じられた。「怖かった……」そんな千尋をヤマトはじっと見つめている。「はぁ……」千尋は息を吐くと家の中に入った。慎重に外の様子を伺いながら家中の雨戸をぴっちり締め、鍵をかける。いつもよりも念入りに千尋は戸締りをした。全ての部屋に鍵をかけると、千尋の心に少し安心感が芽生えてきた。「手を洗ってこなくちゃ……」洗面台に移動するとヤマトもついてくる。鏡を見ると青ざめた顔の自分が映っていた。「うわ……顔色悪い。今夜は栄養つけなくちゃ。ヤマトもお腹すいたでしょ? 今御飯あげるね」「ワオン!」ヤマトは嬉しそうに尻尾を振った——ドッグフードを容器に移し、水を置いたがヤマトは食べようとしない。じ~っと千尋を見つめている。「アハハ……私が食べるか心配してるの? 大丈夫、ちゃんと食べるからヤマトも食べて」その言葉を聞くと安心したのか、ヤマトは餌を食べ始めた。千尋はヤマトが餌を食べるのを見届けてから、自分の夕食の準備に取り掛かった。「は~本当は今日スーパーで買い物して帰りたかったんだけどな……。でも渡辺さんから肉じゃがもらったから、お味噌汁とサラダでも作ろうかな?」ブロッコリーを茹で、豆腐となめこの味噌汁を作り、冷凍焼きおにぎりを解凍して今夜の食事が完成した。時計を見ると19時を過ぎていた。「いただきます」手を合わせて貰い物の肉じゃがを早速口にしてみた。「美味しい!」渡辺の作った肉じゃがは甘みが少し強い味付けで、ほっこりとしたジャガイモによく味が馴染んでいた。「流石、渡辺さん。今度作り方教えて貰おうかな?」食事を終えると千尋は明日の朝食とお弁当の準備を始めた。お味噌汁用に青菜をざく切りにしてポリ袋に入れ、アスパラをベーコンで巻き、つまようじで差したものを数本用意する。「後はさっきのブロッコリーの残りに卵でも焼けばいいかな? そうだ! 渡辺さんにはしょっちゅうおかずを貰ってるから、たまには私から何か差し入れしてあげたいな。クッキーでも焼いて持っていこう!」千尋の趣味の一つにお菓子作りがある。祖父が健在だった頃はよくケーキを焼き、2人で仲良く食べていた。冷凍庫の中には作り置きしていたクッキー生地
「ええーっ! この青い薔薇、届け先は千尋ちゃんだったの!? 一体、何本あるんですか?」渡部が目を見開く。「それが……365本あるのよ」「「365本!?」」中島の言葉に2人は同時に声をあげた。「送り主は誰なんですか?」千尋は慌てて中島に尋ねる。「永久野 仁という人物なの。注文を受けた時におよその金額を言ったら、すぐに店の口座にお金が全額振り込まれてきたのよ」「うわっ怪しい! それに『とわのひとし?』って千尋ちゃん、知ってる相手?」「いいえ、そんな人知りません」渡辺の問いかけに千尋は否定する。「何か不気味よね……。青山さん、この薔薇どうする?」中島は不安げにしている千尋に声をかけた。「あの……すみませんが、怖くて受け取りたくありません。こちらの店に置いておいていただけますか?」「ええ、うちの店はちっとも構わないわよ」「ねえ、千尋ちゃん。顔が真っ青よ。お店の奥で少し休んでいたら?」 渡辺は千尋の顔が青ざめていることに気付いた。「はい……すみません……」千尋はノロノロと休憩室の椅子に座ると深いため息をついた。(一体誰があんなに大量な薔薇を? 名前だって全然思い当たらないし……気味が悪い……)そこへヤマトがやってきて足元に座り、千尋を見上げた。「ヤマト……」千尋はヤマトの首に腕を回して、しっかりと抱きしめた。「そうだよね、私にはヤマトがついてるもの。ヤマト……私に何かあったら守ってね」目を閉じて千尋はヤマトに囁いた。するとまるで人の言葉が分かってるかのようにヤマトはうなずいた。****—―18時今日は千尋の早番の日である。中島はお客の対応をしているので、切り花を仕分けしている渡辺に声をかけた。「お疲れさまでした。店長によろしく伝えておいてください」「お疲れ様、千尋ちゃん。ねえ、1人で大丈夫?」「大丈夫です。私にはヤマトがいますから」千尋はリードに繋がれたヤマトを見下ろした。「そうならいいけど……? あ、そうだ! ちょっと待ってね」渡辺は小走りで店の奥に戻るとすぐに紙袋を持って戻ってきた。「はい、これ。肉じゃが作ったから、持って行って家で食べて。タッパだけ、持って来てね」「いつもありがとうございます! 今度私も何か持ってきますね」笑顔でお礼を述べる千尋。「いいのいいの、気持ちだけで。それじゃ気をつけ