彼女の様子がおかしい。何をそんなに怖がっているのだろう?もしかして君を脅かす人間がいるのかい?あいつか?あいつのせいなのか?だとしたら排除しなければ……****—―0時半「クソッ! 何なんだよ! お前一体誰なんだ!? 毎晩毎晩人の携帯に無言電話かけてきやがって!」里中は無言の相手に電話越しに怒鳴りつけていた。折角眠っていた所を例の無言電話で起こされてしまったので里中の怒りは沸点に達していたのだ。無言電話がかかってきて早1週間。連日連夜何十回も無言電話がかかってくるので、もういい加減我慢の限界だ。スマホの電源を切ってしまえば良いのだろうが、それでは相手に負けを認めてしまうようで嫌だった。男の意地である。「いいか!? これ以上無言電話をかけてくるなら発信履歴を割り出して警察に通報してやるからな!!」「……るな」すると初めて受話器から声が聞こえてきた。「あ? 何だって?」「……ちか……よるな……」「はあ? 近寄るなって何のことだ!?」すると今度ははっきりと声が聞こえた。「彼女に近寄るな!!」ボイスチェンジャーでも使っているのか、耳障りな大声が耳に飛び込んでくる。「おい? 何言ってるんだ? 彼女って誰の事だ!?」プツッ!そこで電話は切れてしまった。(何なんだよ……。彼女に近寄るなって……)そこで、里中は電話がかかり始めた先週のことを思い出してみた。(確か、あの日は千尋さんが病院にやってきた日で、俺は遅れて来た彼女を駐車場まで迎えに行って、その時に視線を感じて……)ふとある考えが浮かんだ。(もしかして、あの無言電話の相手は千尋さんの彼氏……? いや、待てよ。それならこんなまどろっこしい真似しないで、はっきり自分が彼女の彼氏だからと俺に宣言すればいいはずだろう)里中は不吉な予感がした。(あの無言電話の相手……ひょっとしてストーカー? 大体何で俺の携帯番号を知ってるんだ? 俺のことも千尋さんのことも知ってる人間? だとしたら病院関係者だろうな……。とにかく、今日は千尋さんが病院に来る日だ。彼女に最近誰かに付きまとわれてないか聞いてみよう)……結局里中はこの日、一睡もすることが出来なかった――****—―翌朝「え? 千尋さん今日は来ないんですか?」いつも通り出勤した里中は主任から、代理で別の人物が生け込みに来ること
「おい、千尋ちゃん暫くここに来ないんだって? 体調が悪いらしいじゃないか。早く良くなるといいな。患者さん達もヤマトに会えるの楽しみに待ってるし」患者のマッサージを終えて片付けをしていた里中に先輩の近藤が声をかけてきた。「え? 千尋さん具合悪いんですか!? 誰にその話聞いたんですか!」里中は驚いて近藤に詰め寄る。「お前、聞いてないのか? あ~そっか。千尋ちゃんの代理の人がやってきた時、お前患者さんの対応中だったな。ほら、あの人に聞いたんだよ」近藤の示した先には中島が花を飾っている所だった。「あの人が店長?」「うん、俺よりは年上だろうけど中々美人だよな~。ま、俺の彼女には負けるけどな。何たって笑顔が可愛いし……」里中はそんなのろけ話を上の空で聞いていた。(どうする、今千尋さんの具合の様子をを尋ねてみるか? でも正直に答えてくれるだろうか……)そこまで考えて、里中にある考えが閃いた。****「よし、終わり。うんうん、我ながら完璧な仕事ね」中島は自分が仕上げたフラワーアレンジメントを満足気に眺めた。秋らしく、暖色系の色でまとめてピンポイントに赤や紫の色の花を添えてみた。仕事も終了したので責任者に声をかけて帰ろうとした時に、突然中島は声をかけられた。「すみません。『フロリナ』の方ですよね? 少しよろしいですか?」中島は声をかけてきた青年を見た。(あら、随分若いスタッフね)「はい。何か御用ですか?」「俺、里中って言います。さっき同僚の先輩から千尋さんの体の具合が悪いって聞きました。それで、ちょっと気になる事があって……」(え? 何この男?)突然千尋のことを尋ねてきたので身構えると、里中が慌てて弁明した。「あの、実は1週間程前に千尋さんと駐車場に一緒にいた時に強い視線を感じたんです。その日の夜から毎晩俺の携帯に無言電話がかかってくるようになって、昨夜とうとう相手がしゃべったんですよ。彼女に近寄るなって。だから千尋さんに何かあったんじゃないかと心配になったんです」その言葉を聞いて中島は眉を顰めた。「あなた……失礼ですが、うちの青山とはどのような関係ですか?」「は? 関係?」「彼女と交際してるんですか!?」中島は口調を強めた。「とんでもないですよ! 病院で知り合った、友人関係でもない只の顔見知りですよ」「それじゃ、青山さんはあ
「この書類、新しい契約書になります。よろしくお願いします」「どうもありがとう」契約書を受け取ると中島は帰って行った。(本当は自分でこの契約書を持って千尋さんに会いに行きたかったけど、怯えさせてしまうかもしれない。それよりも俺のやらなくちゃならないのは犯人を見つけ出すことだ。一体どうすればいいんだ……?)具体的な考えはまだ何も浮かんでこなかったが、あまり時間はかけたくない。(取りあえず、共通の知り合いにかまをかけてみるか……?)気持ちを新たに、里中は仕事に戻って行った――**** 休憩時間の合間を縫って、里中はさぐりを入れてみることにした。けれども男性スタッフ全員が妻帯者であったり、彼女を持っていた。しかも全員が里中が尋ねもしないのに、のろけ話をしてくるので話にならない。(参ったな……。ここのスタッフかと思っていたのに空振りだったみたいだ)「……コーヒーでも買って来るか」 自動販売機の前でコーヒーを買おうとしていると背後から声をかけられた。「今日もコーヒー買うのか? 里中」振り向くと、そこにはオペレーターの長井が立っていた。「そうか、今日も入れ替え日だったのか」(そう言えば長井もここに出入りしている人間だから、千尋さんの顔を知ってるかもしれないな)長井の顔をじ~っと見た。「な、何だよ。男に見つめられる趣味は無いぞ」「なあ、長井……」「ん? 何だ?」「お前彼女いる?」「いきなり何言い出すんだよ。まあ、正直に言うと現在募集中かな」「ふ~ん。そうか」(長井は彼女がいない。可能性はあるな……。でもストーカーするタイプには見えないけどな)「突然どうしたんだよ? そういうお前はどうなんだ? 彼女いるのか?」「そんなのいねーよ。ま、今は仕事で精一杯だからな」(本当は千尋さんが俺の彼女になってくれたらなー)里中はお金を入れて自販機の缶コーヒーのボタンを押した。ガコン!出て来たコーヒーを取り出す。「それじゃ俺もう仕事に戻るわ。じゃあな」手をヒラヒラ振り、里中は缶コーヒーを持って職場に戻って行った――****ーー17時「お疲れさまでしたー」退勤時間になり、里中は帰ろうとすると野口に声をかけられた。「里中、『フロリナ』に行くんだろう?」「いえ、行くのやめにしました。今日代理で来た方に書類渡しましたから」「そうなの
フードを被った男がシャッターの下りた<フロリナ>の前に立っていた。警察もあの女も邪魔だ……。彼女から何とか引き離さなければ…。**** 警察官による定期的なパトロール、そして中島が一緒に家に居てくれる為、千尋は以前よりも穏やかに過ごせるようになっていた。毎日ポストに自分の隠し撮りされた写真や手紙が投函されていることは中島から聞いていたが、目に触れさせずに警察に提出してくれている。中島には感謝してもしきれないので千尋はお礼を兼ねて、毎日腕を振るって料理を作っていた。「店長、今日はホワイトソースのチキングラタンにオニオンスープ、それにミモザサラダのフレンチドレッシング和えですよ」「すご~い! まるでレストランのディナーみたい!!」中島は目をキラキラさせて大喜びしている。2人の賑やかな食卓の足元ではヤマトが尻尾を振りながら餌を食べていた。「そんな、大げさですよ。本当に店長には感謝してるんです。周囲には警察の人が巡回してくれているし、店長も家に泊まり込んでくれていますから。私とヤマトだけだったら怖くて家にいられませんよ。どうぞ、食べて下さい」中島は熱々のグラタンを口に運んだ。「美味しい! こんなにおいしいグラタン初めて食べるわ!!」「良かった~。お口に合ったみたいで」「そう言えば、今日病院に行った時に里中さんていう人に会ったのよ。ひょっとしてストーカー相手を突き止められるかもって言ってたわ」「え? 本当ですか!?」「ええ。彼の所には毎晩無言電話がかかっていたそうよ。彼が言うには自分のことも青山さんのことも知っている人間が犯人じゃないかって言ってたわ」「私と里中さんを知ってる人物……?」千尋には全く心当たりが無かった。「うん、だから犯人が見つかるのも時間の問題かもよ?」「それならいいんですけど……」「大丈夫だってば! 全て解決したら彼も誘ってお酒飲みに行きましょ?」「はい!」(良かった、青山さん。少し元気が出たみたいで)この後、2人はいつも以上に会話が弾み、楽しい食事の時間を過ごすことが出来たのであった。****――21時過ぎ2人人で食事の後片付けをしていた時に突然「ピンポーン」と玄関のチャイムが鳴った。「え? だ、誰?」千尋はビクリとなった。「大丈夫よ、青山さん。私が玄関の様子を見てくるから絶対出ちゃ駄目よ
中島と警察官がパトカーで店まで出かけた後、残った警察官は千尋に言い聞かせる。「いいですか? 戸締りをしっかりして一歩も家から出ないようにして下さい。私が外で待機していますので安心して下さい」「はい、ありがとうございます」千尋は警察官が門の外へ出ると、鍵をしっかりかけたが身体の震えが止まらない、そこへヤマトがやってきた。「ああ、ヤマト」千尋はヤマトをしっかり抱きしめた。「私を守ってね……」ヤマトは黙って頷く。その時――ガチャーンッ!!遠くで何かガラスのようなものが割れる音が聞こえて悲鳴があがった。バタバタバタと走り去っていく音が聞こえ……やがて音は遠ざかり、辺りはまた静けさを取り戻した。「な、何!?」千尋は飛び上がり、耳を澄ましたが何も聞こえない。5分程経過した時に、玄関の方でガチャガチャと音が聞こえた。「――!」千尋は恐怖で身体が動かない。「ウウ~ッ!」ヤマトが立ち上がり、今まで一度も聞いたことがないような低い唸り声をあげて玄関の方を睨み付けている。「ヤ、ヤマト……?」—―ガチャッ……玄関の開く音が聞こえた。「!!」千尋は思わず叫びそうになり、両手で口を押えた。ギシッギシッ……廊下を進んでくる足音が聞こえる。(いや……誰……? 怖い……!!)その時。「ガウッ!!」ヤマトが鋭く吠え、廊下を飛び出した。「うわっ!」直後、はっきりと聞きなれない男の叫び声が聞こえた。「くそっ! は、離せ!!」ヤマトが侵入者と格闘しているようだが千尋は恐怖で動けない。バタバタバタッ!!「ワン! ワン! ワン! ワンッ!!」走って逃げる足音とヤマトの吠える声が完全に聞こえなくなるまで、千尋は一歩も動くことが出来ずにいた。やがて静かになったところで千尋は我に返った。「ヤマト……?」玄関へ向かうと、ドアは開け放され、ヤマトの姿も侵入者の姿も見えなかった。「ヤマト……? ヤマト!!」玄関を飛び出すと、慌てて走ってきた警察官と鉢合わせした。「一体、何があったんですか!?」千尋は警察官に詰め寄った。「それが、近所で石で窓ガラスを割られる事件が発生したんですよ。急いで様子を見に行って話を聞き終わった後、こちらへ戻ってきたばかりなんですが……この様子だと何かあったようですね……」警察官は千尋のただならぬ様子に気付いた。
「青山さん……?」中嶋は千尋の家に戻ると、俯いて床に座り込んでいる千尋を見つけた。「店長……。ヤマトが……」中島は何も言わずにギュッと千尋を抱きしめた。既にヤマトが千尋を守った事も聞かされているのだ。「大丈夫、ヤマトが見つかるのを信じて待ちましょう?」千尋は黙って頷いた。しかし、この夜ヤマトが戻ってくることは無かった――**** —―翌朝里中は出勤時、守衛室をチラリと覗いて見たが話しかけてきた男は素知らぬ顔で座っている。(……妙な男だな……)病院のロッカールームで先程の守衛の男のことを思い出してみた。(おかしい……何故昨夜は無言電話がかかってこなかったんだ……?)ぼんやり考えていると、ポンと肩を叩かれた。「おはよう、里中」 振り向くと先輩の近藤だった。「なあ、知ってるか? 昨夜<フロリナ>でボヤ騒ぎがあったって」「え!? 何ですか? その話は!?」里中は嫌な予感がした。「さっき俺も聞いたんだが、知り合いがあの花屋の近くに住んでいて夜の9時過ぎ……だったか? シャッターの前に段ボール箱が置かれて燃やされたらしいぞ? でも大した被害は無かったらしいけどな」「そんな……」(ひょっとすると昨夜俺に無言電話がかかってこなかったのは、あのストーカーが燃やしたのか? 恨みとかで……? でもそれだけじゃ説明がつかない……)「おい、どうした? 里中? 遅刻するぞ?」近藤が声をかけてきた。「あ、いえ。何でもないです!」里中は慌ててユニフォームに着替え始めた—— リハビリステーションに行くと何故か騒がしい。見ると主任が数名の男達に取り囲まれているのである。「あれ? 一体何があったんだ?」一緒にやってきた近藤は不思議そうに眺める。その時、主任がこちらを見た。「里中! ちょっとこっちへ来てくれ!」「はい、何でしょう?」呼ばれて行くと、50代位の男性に声をかけられた。「里中さんですね? 我々はこういう者です」取り出したのは警察手帳である。「!」「少しお話したいことがあるので、お時間いただけますか?」里中は主任の顔を見ると、黙って頷かれた。「はい……大丈夫です」「ありがとう。ではついてきてください」 病院の外に連れ出されると入り口にはパトカーが止まっていた。「あなたを案内したい場所があります」パトカーに
「そうですか。やはりあなたはあの男をご存じなんですね」一旦、病室を出て同じ病棟の談話室へ移動すると一番年長の警察官が里中に声をかけてきた。「はい。俺が勤務している病院の自動販売機のオペレーターです」「あの男とは友人関係だったんですか?」「はい、友人です」「しかし、彼の方はそう思っていなかった可能性がありますね」警察官は何故か意味深なセリフを吐いた。「あの……一体それはどういう意味なんですか?」すると今まで2人の会話を聞いていた若い警察官が口を挟んできた。「君は何も気づいていなかったのか?」はっきり言わない警察官にしびれを切らした里中はイライラした調子で声を上げた。「さっきから一体何が言いたいんですか? はっきり言って下さいよ!」「ああ、これは失礼」若い警察官を制すると再び年配の警察官が謝ってきた。「この男はねえ、昨夜9時半頃に雑居ビルが立ち並ぶ歩道橋の下で頭部から血を流して倒れている所を発見されたんですよ」ゴホンと咳払いして警察官は続けた。「幸い、身元の確認はすぐに出来ました。携帯電話を所持していましたからね。それでちょっと面白いことが分かりましてね」「面白いこと?」里中は眉をひそめた。「彼の発信履歴を見ると、ここ最近ある一定の時間に何度も何度もあなたに電話をかけていることが分かったんですよ」「え?」一瞬何を言われているのか分からなかった。「あなたのところに最近毎晩のように電話がかかってきていませんでしたか?」「!」(まさか……あの無言電話の相手が……!?)親友だと思っていた長井がストーカーだったとは思いたくなかった。しかし現実は残酷だ。「この女性に見覚えありませんか?」警察官は1枚のスナップ写真を見せてきた。そこには隠し撮りしたかと思われる千尋の姿が映されている。「千……尋さん……」「やはりあなたは彼女を知ってるんですね。この写真、発見時に長井が所持していたんですよ。いや、実は我々は最近こちらの女性からストーカー被害の相談を受けていたんですよ。それで彼女の自宅付近を毎晩パトロールしていましてね」里中は黙って警察官の話を聞いている。「昨夜は2名体制でパトロールをしていたのですが、ボヤ騒ぎで二手に分かれて行動したんですよ。1名はこの女性の自宅付近に待機していたんですが、近所の家の窓ガラスが割られる悪戯があ
「ほう。あなた、犬の名前までご存じだったんですね」「勿論です! ヤマトはうちのリハビリステーションのセラピードッグだったんですよ。すごく賢くて大人しい犬なんです。だからそんな行動に出たなんて、正直驚いていますよ!」「……余程、ご主人を慕っていたんでしょうねえ」「はい、そう思います」里中は唇を噛んだ。「我々は警察官を1名病院に残してこれから長井の住むアパートに行ってきますよ。ご協力感謝いたします。病院まで送りますよ」警察官たちは立ち上がった。「あの……」里中はまだ椅子に座ったまま俯いた。「何です?」先程まで話をしていた警察官が返事をした。「長井は……またストーカー行為を続けるでしょうか?」「ああ、それは無いと思いますよ」こともなげに言う警察官に里中は不思議に思った。「どうして言い切れるんですか?」「……恐らく落下した時に第5頸椎を損傷したのでしょうね。もう一生車椅子生活になったらしいです」「え? 長井はもう二度と歩けない身体になってしまったんですか?!」あまりにも衝撃的な話しばかり続き、里中は眩暈がしてきた。「まあ、自業自得ってところもありますね。それに運が良かったじゃないですか? 下手したら死んでたかもしれないところを助かったのですから」若い警察官が口を挟んできた。あまりの言いように里中は頭に血が上ってしまった。「なんだってそんな言い方するんだ!! お前、それでも警察官か!?」気が付けばその警察官の胸倉を掴んでいた。「ぐっ……」胸倉を掴まれた警察官は苦しそうに呻いた。「まあまあ、落ち着いてくださいよ。今の言い方は確かにこちらが悪かったです。許してやってください、まだ年若い男なので」年配の警察官に止められて、里中は手を離した。「すみません……つい乱暴な真似をしてしまって」若い警察官はまだ苦しそうに喘いでいる。「……長井の目が覚めたら連絡貰う事は出来ますか? これでもまだ俺はアイツのことを親友だと思っているので」「ええ、分かりました」その後、里中はパトカーに乗せられ再び山手総合病院へと戻った――**** 千尋は中島から今日は仕事を休むように言われて自宅のリビングにいた。目の前には女性警察官が2名いる。1人はショートヘアの若い女性、もう一人はメガネをかけた30代位の女性警察官である。「この男性に見覚えがあ
こんなはずじゃなかったのに——クリスマスイブ、里中は高熱を出してワンルームマンションの自分の部屋で寝込んでいた。「くっそ……頭がズキズキする………」前日の夜、クリスマスパーティーのことを考えると興奮して眠れなかった里中。コンビニで買って来た度数の強いアルコールを部屋で飲み、そのまま布団もかけずに眠ってしまった。そして朝起きた時には酷い風邪を引いていた。何とか職場には風邪の為に出勤出来ない旨を話し、近藤にも詫びを入れて貰うように主任に電話を入れる事が出来たのだ。(先輩、すみません……)熱で朦朧となりながら心の中で近藤に謝罪した。時計を見ると昼の12時を少し過ぎた頃だった。「あ~腹減った……」高熱を出しているのに空腹を感じるとは皮肉なものである。しかし普段殆ど自炊等したことがない里中の家の冷蔵庫は缶ビールと牛乳が入っているのみである。こんなことなら普段から何かあった時に食べられる冷凍食品でも買い置きをしておけば良かったと里中は思った。「う……トイレに行きたくなってきたな……」本当は布団から出たくは無かったが、我慢する訳にはいかない。何とか起き上がると、壁伝いにトイレへ向かう。「……」そしてトイレから出て布団に戻る途中で里中は意識を無くして倒れてしまった——****「ん……?」次に目が覚めた時は布団の中だった。額には熱さましシートが貼られている。ふと、誰かが台所に立っている気配が感じられた。「誰か、いるのか……?」その時。「あ、気が付いたみたいだね?」台所から顔を出したのは渚であった。「な? お、お、お前……どうして俺の部屋に?」里中は布団から起き上がりながら尋ねた。「あ、まだ起きない方がいいよ。里中さん、部屋で倒れてたんだよ。熱だってまだ高いし。でも目が覚めて良かったよ。風邪薬買って来たから枕元に置いておくね」渚はお盆に水の入ったコップと風邪薬を枕元に置いた。「悪いな。ところでさっきも聞いたけど、どうして間宮が俺の部屋にいるんだ?」「お昼を食べに来た近藤さんから聞いたんだよ。里中さんが高熱を出して寝込んでいるから心配だって。様子を見に行きたいけど今日は人手不足で手が足りなくて抜けられないって聞かされたんだ」「うん、で? それと間宮がどんな関係があるんだ?」「幸い、僕の部署は今日手が足りてるから一人ぐらい居なくても
「ち、千尋さん!」「はい?」突然大きな声で名前を呼ばれて千尋は返事をした。「あの、来週のクリスマスイブ、何してますか!?」「え……と? 普通に仕事ですけど?」「そ、そうですよね。お花屋さんなんて1年でも最も忙しい日かもしれませんよね。ハハハ」「里中さんも仕事ですか?」「はい……。しかもあの鬼のような先輩に遅番のシフト無理やり交代させられたんですよ。どうせ何も予定が無いから別にいいんですけどね……」「私も遅番なんですよ。でも仕事が終わったら<フロリナ>の人達とお店でクリスマスパーティー開くことになってるんです。もしよければお店にいらっしゃいますか?」「え! それ本当ですか!?」「はい、あ……でもパーティーと言っても大したこと出来ませんよ? 仕事の終わった後なので料理の準備が出来ないからデリバリーのピザや買って来たチキン……それにクリスマスケーキといった簡素なものなんですけど。毎年クリスマスはこんな感じで過ごしてるんです。それに今年は渚君も来るし、里中さんも、もしよければ……」「行く! 絶対に行くっす!」本当は二人きりで過ごしたいところだが、一人寂しくイブを過ごすよりも大勢でパーティーで盛り上がった方が数倍楽しい。しかも千尋がいれば尚更だ。「それじゃ、<フロリナ>の人達にも話しておきますね」千尋はにっこり笑った。(くう~! 神様! 生きててよかった! 先輩、感謝します!)ついでに前方を歩く近藤に感謝する里中であった。 近藤が連れて来たラーメン屋は豚骨スープのラーメンとあっさりした魚介で出汁をとった魚介スープの2種類を扱ったラーメン屋であった。麺は太く縮れてスープによく馴染む。「美味しい!」千尋はラーメンを一口食べて感嘆の声をあげた。千尋の食べているラーメンは塩の魚介スープ味だ。「千尋、これも美味しいよ。このトッピングの味卵もいいね」渚が食べているのは魚介スープの味噌味。一方、里中と近藤が食べているのはこってり豚骨スープの味噌ラーメンである。「あ~あ……結局こうなるのか……」里中は千尋と渚が並んで座って楽しそうに食べているのを横目でチラリと見て言った。あいにく店が混雑していてカウンター席で二人一組で別れて座る事になってしまったのである。「何だよ、折角人が気を利かせて千尋ちゃんと喋れる場を用意してやった俺にそんな口聞いて
近藤は手を振りながら千尋と渚の前に姿を現した。「あ、近藤さん。こんばんは」千尋が頭を下げた。「あれ? どうしたんですか? ん? 後ろのいるのは里中さんですか?」渚は近藤の後ろに隠れるように立っていた里中に気が付いた。「こ、こんばんは……」渋々里中は千尋と渚の前に姿を見せた。「凄い偶然だな~。俺達飯でも食べようかって一緒に駅まで来たんだよ。そしたら間宮君が千尋ちゃんと一緒の所を見かけて声かけたんだよ、な? 里中」近藤はその場で考えた嘘をペラペラと喋った。「あ、う、うん。実はそうなんだよ」仕方ないので里中も話を合わせる。「ふ~ん、やっぱりお二人ってすごく仲がいいんですね」千尋が近藤と里中を交互に見ると、渚が教えた。「うん。近藤さんと里中さんは大体いつもお昼ごはんを一緒に食べに来るんだよ」「なあ、どうせなら皆でこれから飯食べに行かないか? 俺美味いラーメン屋知ってるんだ? 千尋ちゃんはラーメン食べるかい?」近藤が尋ねる。「そうですね……。私はラーメン好きだけど、渚君は食べる?」「うん、千尋が食べるなら僕も食べるよ」二人が顔を合わせて話すのを里中は暗い気持ちで見ていた。その様子に気が付いたのか、近藤が明るい声を出した。「よおし! それじゃ皆で行こうか。間宮君、実は俺前から君と話がしたかったんだよね~」近藤が渚の隣に並んで話しかけてきた。「え、何ですか? 話って」「まあ、歩きながら話そうぜ」そして強引に渚を連れて先頭を歩き出した。後ろを振り返った時、近藤は里中に目配せした。(頑張れよ)そう応援しているかのように見えた。(先輩……俺の為に?)里中は近藤に勇気づけられて千尋に向き直った。「俺達も行きましょう、千尋さん」「そうですね。行きましょうか?」(どうする? でも一体何を話せば良い?)本当は話したいことは沢山あった。けれどもいざ千尋を前にすると緊張の為か何を話せば良いか分からない。でも黙ってるのも気まずい。「あ、あの千尋さん」里中は思い切って口を開いた。「はい?」「千尋さんはラーメンは何派ですか? 俺の中ではやっぱりラーメンと言えば豚骨味噌味が一番ですよ」「そうですね。私だったら、あっさりした醤油ラーメンかな?」「あー醤油もいいっすね~。特に刻み葱がたっぷり乗って大きなチャーシューがトッピングされてい
夜の公園で話をした後、里中は仕事の合間に渚を注意深く観察することにした。理由は渚のあの時の言葉の真意を測る為である。自分に残された時間は少ない等と意味深なことを言われては気になるのも無理はなかった。なので自分と帰る時間が重なる時は待ち伏せして様子を見ることにしたのである。今日がその第1日目であった。 通用口で渚が出てくるのを見張っていたその時。「何だよ、里中。お前探偵にでもなったつもりか?」近藤が後ろから肩をポンと叩いてきた。「うわあああっ!」里中は驚いて大声を出してしまった。「先輩! 脅かすのはやめてくださいよ! 心臓に悪い!」「な、何言ってるんだよ。あんな大きな声で叫ばれたこっちの方がおどろいたじゃないか」余程驚いたのか、近藤は胸を押さえている。「ところで、お前まだ千尋ちゃんの男を見張ってるのか?」「まだ千尋さんの男と決まったわけないじゃないです」「お前なあ、若い男女が二人きりで一つ屋根の下に暮らしてるんだぞ? 本当に何も無いと思ってるのか?」「言わないで下さいよ! 想像もしたくない!」里中は両耳を押さえる。「俺は今、間宮の動向を探るので忙しいんですから」再び里中は通用出口に目を移した。「お前、本当に暇人だなあ。なあ、そんなのやめて今から俺と飲みに行こうぜ?」「嫌ですよ。先輩酒に弱いじゃないですか。もう先輩のおもりするのはごめんです。あ! 出て来た」里中は現れた渚に注目した。「先輩、俺はあいつの後をつけるんで失礼します」「ふ~ん。俺もついてこうかな? どうせ今夜は暇だし」「駄目です、ついてこないで下さい」「それじゃ、なぜ間宮君を見張ってるのか教えてくれたら、ついてくのやめてやるよ」「それは……」「あ~っ! そんな事より見失うぞ!」近藤に言われて、慌てて里中は後を追った。当然のように近藤もついてくる。「なあ、こんなことして意味あるのか?」「先輩、文句があるならついてこないで下さいよ」渚はバス停で止まった。「あ、バスに乗るみたいだな? どうする? 俺達も乗るのか?」「勿論、乗りますよ」バス停には20人前後の人々が待っていた。里中と近藤は前方に並んでいる渚よりも10人程後ろで並んだ。やがてバスがやって来ると列に並んでいた人々がぞろぞろ乗り込んだ。渚も乗ったので、里中と近藤も後に続く。バスに揺られな
退勤後――里中は寒空の下、職員通用出口で渚が出てくるのを待ち伏せしていた。こんな事をしていても無意味なことは分かっていたが、どうしても確認しておきたいことがあったのだ。暫く待っていると渚が出て来た。「おい、お前!」里中は渚の前に立ちふさがる。「……少し、時間くれるか?」「あれ? えっと、君はさっきの……?」渚は首を傾げた―― 二人は人気の無い公園に来ていた。里中は口火を切った。「俺はリハビリステーションスタッフの里中だ」「うん、そうだったね。ところで僕に何か用なのかな? 悪いけど、千尋が家で待ってるからあまり時間はとれないんだ」何気なく言った渚の言葉は里中の神経を逆なでした。里中はグッと両手を握りしめると言った。「やっぱり、二人は一緒に暮らしてるのか?」「そうだよ。今は一緒に暮らしてる。僕が料理担当で千尋は掃除と洗濯担当だよ。千尋はね、すごく僕の料理を褒めてくれるんだ。だからもっともっと美味し料理を作って千尋を喜ばせたいと思ってるよ」当然その話に増々里中のいら立ちは募る。「俺………お前よりもずっと前から千尋さんの事が好きだった。俺だって、彼女のこと喜ばせたいよ。くっそ、俺の方が早く出会っていたのに……」「君も千尋のこと好きだったんだ。僕も千尋のことが大好きだよ。一緒だね?」渚はさらりと笑顔で言う。「お前なあ、自分で何言ってるか分かっているのか?」「うん、良く分かっているつもりだけど?」「く……」里中は唇を噛んだ。(何だ? こいつの思考回路は少しおかしくないか?)「もう帰っていいかな? 千尋が家で待ってるから」渚は踵を返した。「お、おい! 待てよ! まだ話は終わってないぞ!」里中が渚を引き留めようとすると、渚の足がピタリと止まった。「……悪いけど、あまり待てないんだ」渚の口調が突然変わった。「え?」振り向いた渚の顔からは表情が消えていた。「僕には、君と違って時間が無いんだ。だから、少しでも長く千尋の側にいたい」「え? お前一体何を言ってるんだ?」「僕にとっては君の方が羨ましいよ。だって……僕にはあまり彼女と一緒にいられる時間が残されていなんだから……」月明かりを背に、渚の瞳は涙で濡れているように見えた。「! お前、何言って……」「それじゃ、里中君。また明日ね」次の瞬間渚の顔からは悲しみの表情が
「千尋ちゃん、今日も渚君の手作り弁当なの?」千尋と一緒にお昼休憩をとっている渡辺が声をかけた。「はい。渚君、自分の分はいらないのに、わざわざ私の分だけ作ってくれたんです」「あらま、自分の分はいらないってどういうこと?」「レストランで働いている人たちには、まかないがあるそうなんですよ」「へえ~羨ましいわね。ところで、今日は渚君迎えに来てくれるの?」「今日は私の方が帰りが早いので買い物して先に家に帰るつもりです」 「それじゃ、今夜の夕食当番は千尋ちゃんなの?」「はい、最初は渚君食事は全部自分で作るって言ってたんですけど、どちらか早く家に帰れた方が食事を作るってことに決めたんです」「ふふふふ……」渡辺が意味深に笑う。「な、何ですか?」「もう完全にのろけね、それは。いや~千尋ちゃん、愛されてるわ~」「そんなんじゃ、無いですよ! 私と渚君の間には何もありませんってば」千尋は顔を赤らめて抗議した。「そうかなあ~。誰の目から見ても、少なくとも渚君は千尋ちゃんに好意を抱いてるわよ? それとも千尋ちゃんは渚君に好かれると迷惑なの?」「そんな、迷惑だなんて思ったこと無いです」「嫌いじゃないんでしょ? 渚君のこと」「もちろんです」「だったら何も問題無いじゃない? 渚君に思われて悪い気はしないんでしょ?」千尋は頷いた。むしろ渚に好意を寄せられるのは嬉しい。けれど、渚は時々どこか遠い目をする時がある。近くにいるのに二人の距離は離れているように感じる時もある。後で自分が傷つくのでは無いかと思い、千尋はどうしても渚には深入りすることが出来なかった――**** 食事を終えて里中と近藤は職場に戻りながら話をしている。「それにしても驚いたな。まさかこんな場所で偶然会うなんて」「……はい」里中は神妙な顔で頷いた。「まあ、ライバルが同じ病院内で働いているのはお前にとってはあまり穏やかな気持ちにはなれないかもなあ?」近藤はニヤニヤしている。「先輩、面白がってませんか?」「そもそも、お前がもっと早く千尋ちゃんに告っていれば、間宮君と一緒に暮らすことにはならなかったんじゃないかな……っとやべっ!」近藤は慌てて口を押えたが手遅れだった。「先輩……」里中の瞳が鋭さを帯びた。「ヒッ!」近藤は小さく悲鳴をあげる。「一緒に暮らしてる……? 一体ど
「おはよう、青山さん」 11時、遅番の中島が出勤してきた。「おはようございます。店長」千尋は花の世話をしながら挨拶をした。「あら? 今朝は渚君の姿が見えないわね? いつも遅番の誰かが出勤してくるまでにはお店にいるのに」「実は渚君、新しい仕事が見つかって本日から仕事始まったんです」「え~そうなの? 仕事何処に決まったの?」「それが、何と山手総合病院にあるレストランで働くんですよ」「え? まさかあの病院のレストランで? 一体どういう経緯でそうなったの?」「この間、病院に生け込みの仕事に行ったときにリハビリステーションの野口さんからコーヒー券頂いて二人でレストランに行ったんです。その時に人手不足で困っている話を聞いて、その場で面接して採用されたそうですよ」「ふ~ん、それじゃ今日は初日ってわけね?」「はい。…上手く行ってるといいんですけど」千尋は新しい職場で働いている渚に思いをはせた……。****「おい、里中。今日の昼飯どうする?」昼休憩に入ろうとする里中に近藤が声をかけた。二人でお酒を飲みに行って以来、何かとつるむ仲になっていたのだ。「う~んと……特に考えてないすけどね」「それじゃ、新しく院内に出来たレストランに行ってみないか? ほら、職員割引がきくし」そこへ同じリハビリスタッフの30代の女性職員が声をかけてきた。「あ、お二人ともレストランに行くんですか? 私もさっき行って来たんですよ。何でも今日から若い男性が働いているらしくて、ものすごーくイケメンなんですって。院内の女性職員達が騒いでました。私はあいにくその男性に会うことが出来なくて残念だでしたよ」「へえーっ。そうなんだ。でもヤローには興味ないなあ。どうせなら若くて可愛い女の子が良かったのにな」女性職員が去った後、近藤は言った。「何言ってるんすか。先輩、彼女いるじゃないですか。いいんですか、そんなこと言って」「バッカだなー。勿論俺は彼女一筋だよ、でも目の保養する分にはいいんだよ」「まあ、イケメンはどうでもいいですけど新メニューは気になりますよね。行きますか? 先輩」「おう! 行ってみるか」****「うっわ! なんじゃこりゃ。すげー混んでるな」レストランのテーブル席は満席だった。しかも良く見ると女性客が多い気がする。「ふーん、皆そのイケメンとやらに興味があって来
「う、うん……。別にいいよ?」千尋が手を伸ばすと渚はそっと握った。渚の手は大きく、千尋の小さな手はすっぽり覆われてしまう。(うわあ。大きい手、やっぱり男の人なんだなあ)渚を見上げると、耳を赤く染めている。「何だか……ちょと照れちゃうね」渚が顔を赤らめながら言うので千尋も何だか気恥ずかしくなってしまった。「そ、そう? それじゃやめる?」すると渚は千尋の手をギュっと握りしめた。「やめたくない、こうしていたい」何だか子供みたいにむきになっているようにも見える。千尋はそんな様子がおかしくて微笑んだ。**** それから二人は手を繋いで街を散策した。 本屋さんでは一緒に料理の本を探したり、未だにパジャマを持っていなかった渚の為にパジャマを選んだり、雑貨屋さんではお揃いのマグカップや食器を買ったりした。 お昼は最近テレビや雑誌でも取り上げられているアジアンテイストなカフェで渚が選んだ店だった。混雑時間を避けて行ったので、幸いにもすぐに店に入ることが出来た。この店はカフェであるが、ランチメニューには和食を提供すると言うことで話題を呼んでいる。 「渚君、いつの間にこんなお店見つけたの?」席に着くと早速千尋は尋ねた。「実はさっき、本屋に行ったときにこのお店が雑誌で紹介されていたんよ。今日の朝ご飯はトーストだったからお昼は和食がいいかなと思ってこの店を選んだんだ」渚と千尋は二人で<本日のおすすめ>を選んだ。木のお盆に乗せて運ばれてきたのは、玄米ご飯に豚汁、大根おろしの付いたホッケの焼き魚におひたしである。「うわあ……美味しそう。玄米ご飯なんて素敵」「そうだね、この店に決めて良かったよ」味は文句なしに絶品だった。渚は特に豚汁が気に入ったようで、どんな具材が入っているのかメモした程である。 食事を終えた後は、駅の構内にあるカフェに入り、二人でコーヒーとケーキセットを食べ……気が付くと時刻は17時を過ぎていた。「渚君、そろそろ帰ろうか?」千尋は椅子から立ち上がって声をかけた。「うん……そうだね」電車の中で、今夜のメニューは何にするか話し合った結果、家でパスタを作って食べることに決めた。「私が今夜は作るね。何味のパスタがいい?」「僕は千尋が作ってくれるならどんな味だっていいよ」「それじゃ、クリームパスタにしようかな? 材料買いたいか
「そうだね、特に何も予定無いから一緒に出掛けようか?」「本当? 今日1日僕に付き合ってくれるの? やった! 言ってみるものだね」渚は大袈裟なほど喜んでいる。正直、そこまで喜ばれると何だか千尋は照れ臭い気持ちになってしまう。(まさか、そこまで喜ぶなんてね)「でも、出かけるって言っても何処へ行こうか?」「それなら大丈夫! 実はね、ずっと前から千尋と一緒にやってみたい事を色々考えてたんだ。え~と、例えば公園に行ってボートに乗ったり、手作りのお弁当を持って動物園や遊園地に行ってみたり、車をレンタルしてドライブに出掛けたり……」渚は指折り数える。「渚君……そんなに色々考えてたの?」「でもね、これはまた別の日のお出かけプランだから。今日は別」「? それじゃ何をするの?」「千尋はお休みの日に出掛ける時はどんなことをするの?」「う~ん……特にこれといっては無いけど。でも友達と出かける時はウィンドウショッピングをしたり、お洒落なカフェに入ったり、本屋さんとか雑貨屋さんに行ってみたり、そんな感じ」「じゃあ、今日は僕とそれをやろう?」「ええ? こんな単純なお出かけでいいの? 大して面白くないけど?」「僕はね、千尋が普段お休みの日に何をして過ごしているか知りたいし、共有したいんだ」渚は千尋を見つめる。(あ、またこの目だ……)渚の目は熱を帯びたように千尋をじっと見つめている。この目で見つめられると千尋は何だか落ち着かない気持ちになる。普段は男を感じさせないのに、この目をされると一人の男性として意識しそうになってしまう。「それじゃ……渚君がそうしたいなら、それでいこうか?」「うん、決定だね」先程の表情は消えて、普段通りの無邪気な笑顔に戻っていた――*** 目的の場所は千尋が住む駅の5つ先の駅だった。駅を出て歩きながら渚が尋ねてきた。「千尋はどこで買い物やカフェに行ったりするの?」「ここはね、沢山のデパートがあるし、海外からやってきた話題のインテリアのお店や雑貨屋さんやカフェ、何でも揃ってるんだよ」「へえ~楽しみだな」今日の渚は紺色のスウェットの上にグレーのチェスターコートを羽織り、デニムスキニーをはいている。外見もさることながら、モデル並みの体形もしているので道行く若い女性たちが振り返って渚を見ている。(やっぱり、こうしてみると渚君て格好